“スマホだけ使っている日本人は、ゲーム、ニュース、ソーシャルと刹那的、反射的なことに時間を費やしていて、ジックリ読ませる、堪能させるコンテンツについて新しい部分が開拓できにくい環境にある。”

ASCII.jp:「コンテンツ繁栄のために薄く軽い新iPadに期待」――遠藤諭氏|「新型iPad」&「5K iMac」の詳細記事まとめ

この視点はなかったかも。

(via mitaimon)




本書は、2013年12月に放送されたドキュメンタリー番組を新書化したもの。近所の女性を日本刀で斬殺した元警視庁幹部の86歳、バブルで羽振りがよかった生活が忘れられず、窃盗で現行犯逮捕された65歳、「夫の欲しいもののために代金を支払うなんて馬鹿らしい」と万引きを繰返す66歳、警察から警告を受けても、「俺の方が警察より偉いんだ」とキレる高齢者ストーカー、様々な事例を見ることができる。

 その原因として、お約束の「孤独な老人」というキーワードを持ってくる。退職や離婚により、名刺や居場所がなくなった高齢者と、無縁社会という構図だ。手垢まみれのエクスキューズだが、真逆の話を持ってくるところが面白い。それは、騙されてカッとなり、殺人未遂を犯した62歳男性の事例なのだが、彼には家族もいて、お金にも困っていなかった。孤独だったわけでも、社会から孤立していたわけでもなかったのだ。

 もちろん、一つの要因に帰する乱暴は避けるべきだろう。だが、本書で紹介されている平成25年「万引白書」によると、そこ共通する意識が浮かんでくる。それは、「捕まるとは思わなかった」だ。確かに悪いことをした、反省もしている。だが、とがめられたら、謝ってその場で払えば良いと思っていた───そんな特徴が、最近の老人に増えている。即ち、万引きが犯罪だという意識が低い結果が、データにも出ているという。本書には、遵法意識の薄い人が、「ついカッとなって」「頭が真っ白になって」罪を犯す構図が、繰り返し出てくる。

 本書では、老人がキレやすくなったのではなく、高齢者を取り巻く「環境」が変わったからだと主張する。その理由は、次の通り。高齢者の犯罪が増え始めたのは、1998年くらいから最近に至るまでであり、この年齢層の人たちが30代や40代だったころの犯罪率が高くてもおかしくない。しかし、この年代だけが突出して高くなかったため、元々犯罪を起こしやすい性格の人が、1998年以降に高齢者となったわけではないという。

 著者がどの資料を見ているのかは分からないが、的外れだと考える。即ち、環境云々は後付けのリクツであり、キレやすい世代が老人となったのが、真の原因だ。[反社会学講座 : キレやすいのは誰だ]によると、グランプリは昭和35年の17歳、つまり昭和18年生まれで、2014年現在71歳の方々になる。いわゆる、「三丁目の夕日」に若者だった「ヤング島耕作」あたりが、最もキレる世代なのだ。この世代が、日本の社会を通り抜けてきたのではないだろうか。かつての「暴れる若者」が、いま「暴走老人」となっているのだ。

最近の老人はキレやすい『高齢初犯』: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる (via morutan)

Source: morutan


When I hear what we call music, it seems to me that someone is talking. And talking about his feelings, or about his ideas of relationships. But when I hear traffic, the sound of traffic, here on 6th avenue for instance, I don’t have the feeling that anyone is talking. I have the feeling that the sound is acting. And I love the activity of sound. What it does is it gets louder and quieter, and it gets higher and lower, and it gets longer and shorter… it does all these things which I’m completely satisfied with that. I don’t need sound to talk to me.
我々が音楽って呼んでるものを聴いてると、まるで誰かが喋ってるみたいに感じてしまうんだ。気持ちとか、物事の関係についての見解とかね。でもトラフィック(人や物が行き交う様)を聴いてると、例えばここ六番街でも、音が喋っているような感覚はない。音が活動しているように感じるんだ。そして僕は音の活動が大好きなんだ。喧しくなったり、静かになったり、高くなったり、低くなったり、長くなったり、短くなったり、いろんなことをやって、それでまったく充分。僕は音に喋ってもらう必要なんかない。

We don’t see much difference between time and space. We don’t know where one begins and the other stops. So that most of the arts that we think of is being in time and most of the arts we think of is being in space. Marcel Duchamp for instance, began thinking of music as being not a time art but a space art. And he made a piece called “Sculpture musicale”, which means different sounds coming from different places, and lasting, producing a sculpture which is sonorous and which remains.
私たちは、時間と空間の違いをよくわかっていない。どちらがどこからはじまって、どこで終わるか知らないんだ。だから思いつくほとんどのアートは時間に存在しているし、思いつくほとんどのアートは空間に存在している。マルセル・デュシャンの場合は、音楽は時間芸術ではなく空間芸術だと考えるようになって、“Sculpture Musicale=音楽的彫刻”という作品をつくった。この作品が意図してるのは、いろんな音が、いろんな場所からやってきて、とどまって彫刻を形成し、深く共鳴して、残存するということなんだ。

People expect “listening” to be more than listening. And so sometimes they speak of “inner listening”, or the “meaning of sound”. When I talk about music, it finally comes to people’s mind that I’m talking about sound that doesn’t mean anything, that is not “inner” but is just “outer”. And they say those people who understand that finaly say : “you mean it’s just sounds?”, thinking that for something to just be a sound is to be useless. Whereas I love sounds, just as they are. And I have no need for them to be anything more, than what they are. I don’t want them to be psychological, I don’t want a sound to pretend that it’s a bucket, or that it’s president, or that it’s in love with another sound. I just want it to be a sound.
人は“音楽を聴くこと”が、単に聴くこと以上であることを期待している。だからときどき彼らは“内なる音”とか、“音の意味”なんて言い出したりするんだ。僕が音楽について語るとき、人々が僕が語っているのが無意味な音、“内なる”ではなく、“外なる”音について、だとようやく思い当たって、そして気づいた人はこう聞くんだ、“つまり、ただの音っていうこと?”って。ただの音なんてなんの役にも立たない、と考えながらね。一方、僕は音そのもの、そのままが好きなんだ。僕は音にそれ以上のものに、なってもらう必要なんてない。心理的になんてなってもらいたくないし、バケツになったり、大統領になったり、他の音と恋に落ちたりなんてしてほしくない(笑)。ただ音であってほしいんだ。

I’m not so stupid either. There was a German philosopher who is well known, Emmanuel Kant. And he said there are two things that don’t have to mean anything : one is music and the other is laughter. Don’t have to mean anything, that is in order to give us very deep pleasure. You know that, don’t you?
僕がバカだからってわけじゃないよ。昔、イマヌエル・カントっていう有名なドイツの哲学者も、言っていたよ。意味が無くても良いものが、ふたつだけある:音楽と笑いだ、って。深い喜びを得るために、意味なんて必要なんてないんだよ。おまえは知ってるよねー(猫に)。

The sound experience which I prefer to all others, is the experience of silence. And silence almost everywhere in the world now is traffic.
音の経験のなかで、いちばん好きなのは、静粛の経験なんだ。そして静粛にすると、今は世界中ほとんどどこでも、トラフィックの音が聴こえる。

If you listen to Bethoven or Mozart, you see they are always the same. But if you listen to traffic, you see it’s always different.
ベートーヴェンやモーツァルトを聴くと、いつでも同じでしょう。でもトラフィックの音は、いつも違っているんだ。
注: トラフィック=交通、とは限らず、ジョン・ケージ氏の真意が不明だったので、元のワードのままにしてあります。人やモノ、情報やお金も、行き交えば“トラフィック”と表現できるので。

Palenqueros: ジョン・ケージの“演奏しない音楽”とその演奏者たち。 (via thinkupstudio)

Source: palenqueros.blogspot.jp


本来ならば数十円ぐらいしかアーティストに還元されない円盤を数千円で売ってて、それがネット時代になって成り立たなくなって、その間で暮らしていた人たちも業績が落ち込んで死にます。また、着メロだ着うただ既存の音楽パッケージの延長線上で電子配信していただけの人たちも死んでいって、最後はビジネスの根幹のところであるプロデュースと興行とアーティストというスケルトンだけが残った。

おそらく映像業界もゲーム業界も出版業界も、同じようなことになっていくのは誰が見ても分かってる。売れるものを作れる才能を備えている人は限られている以上、市場の変化に応じて売り方が変わっていき、パッケージのありようも異なっていく。売り方が変わればモデルやプロモーションが変わり、利益率が変わって、その業界で食っていける人は上から何割かというのも変動する。その変化から漏れた人たちは激変だ不況だと騒ぐ。

騒ぐのは自由なんだけど、クリエイティブで飯を食うという仕事の流れや根幹は変わらないんだよね。騒いでる人たちが、その市場の変化についていけなかったか、その人たちにお金を払ってくれる客がついてないので、将来が不安で騒いでいるだけの話。

時事問題の旬について: やまもといちろうBLOG(ブログ) (via 719043)

めずらしくいいことをいう

(via odakin)

Source: wideangle


日亜化学工業社長の小川英治氏
訴訟騒動の真実を今こそ明らかにする

 これまで誰に何を言われても黙ってきました。日亜化学工業は,ものづくりの会社。クライアントにより良い製品を届けることが仕事であり,それを一途に貫いていくことこそ,当社にとって重要なことだと信じていたからです。

 そのため,中村修二氏とその弁護士の方(訴訟代理人弁護士の升永英俊氏)が,各メディアや本などで一方的に自分たちに都合の良い発言をしても,それに対して会社として何か言い返すというようなことはしませんでした。そうした言い合いなど,ものづくりの会社にとっては何の意味もありません。それより,少しでも良い製品を作ってクライアントにきちんと届けることを貫けば,きっと私たちのことを認めてもらえる。それで十分だと思ってきたのです。

 日亜化学工業は徳島という地方にある企業で,広報体制も整っていませんでしたし,マスコミへの接し方がよく分からなかったということも事実としてありました。

 当社は全くうそなどついていませんから,黙っていても,専門家の方なら真実を分かってもらえると信じていました。裁判官の方なら正しい判決をしてくれると思っていたのです。ところが,意に反して「200億円」という巨額の対価の支払いを東京地裁から命じられて驚きました。

 そこでやっと悟ったのです。黙っていては本当のことは世間には伝わらないということに。そこで,当社のものづくりに対するまじめな姿勢をきっと理解してくれるであろう「日経ものづくり」に対して,まずは話をしようと思ったのです。

アニールが鍵

 まず主張したいのは,青色LEDの開発の経緯です。日亜化学工業では,1989年から青色LEDの開発をスタートさせました。そのとき先行していた,当時名古屋大学教授だった赤崎勇氏などの論文を検証する実験から始めました。サファイアの下地の上にGaN(窒化ガリウム)の良質な単結晶膜を世界で初めて作ったのが赤崎氏。これが高輝度青色LEDを作る際の基本的な結晶膜になるのです。ここに応用化技術を加えて,青色LEDの量産にこぎ着けることが,当社にとっての目標でした。

 つまり当社は,先行する「公知の技術」を学習して,これを基点に開発をスタートさせることにしました。既に存在する技術とはいえ,日亜化学工業にはそのリソースがなかったからです。そこに着手したのが中村氏でした。赤崎氏の成膜の方法は開示されていませんでしたが,結果として中村氏が2年ぐらいで赤崎氏が完成させた結晶膜のレベルに追い付いたのです。

 そのために中村氏が開発したのが,「ツーフローMOCVD(有機金属を使う化学的気相成長法)」を使ったGaNの成膜装置でした。要は,当社の社員だった中村氏が1990年に出願した特許第2628404号(404特許)の装置です。これにより,赤崎氏と同水準のGaNの良質な結晶膜を作製することができました。

 これをもって中村氏は「同装置がなければ(404特許を使わなければ),低コストかつ高輝度な青色LEDが作れない」と主張するのですが,それは大きな間違いです。

 当社から言わせれば,中村氏は実用化に向かう研究のための下地を作っただけ。既に世の中に存在していた,赤崎氏が生み出したものと同じ水準の試料を,違う方法で作ることができただけなのです。

 量産までこぎ着けるには,この試料を基にさまざまな応用技術を投入することが必要でした。中でも,量産化に一番貢献した技術が「アニール」です。アニールとは「焼きなます」という意味で,こうしないと工業的に青色LEDは作れないのです。

 LEDではpn接合の半導体を作るために,n型の半導体(膜)とp型の膜とを組み合わせる必要があります。ところが,GaNはそのままではn型の膜にしかなりません。そのため,p型の膜をどうやって作るかが世界中の研究者の目標になっていました。一般の半導体はMg(マグネシウム)を不純物としてドーピング*2するとp型になります。しかし,GaNはMgをドーピングしてもp型にはならず,絶縁体になってしまいます。Mgに付いている水素がp型になることを妨げるからです。

 それをアニール,つまり600℃前後で加熱するとp型に変わること(アニールp型化現象)を世界で初めて発見しました。この温度で熱すると水素が除去され,Mgの活性を取り除いてp型になるのです。

 これを発見したのは,中村氏ではありません。中村氏とともに働いていた若手の研究員が,幸運にも偶然発見したものでした。この研究員がアニールp型化現象を中村氏に報告しましたが,当初中村氏は「そんなはずがない。間違っているだろう」と否定していたくらいです。

 既に青色LEDや,それを基にした白色LEDの市場には世界でざっと50社が参入していますが,アニールの工程なくして商品化している会社は1社もありません。世の中に全く存在しなかった技術を発明したという意味で,アニールp型化現象の発見の方が,既に存在していた平滑なGaNの膜を得ることよりも重要度や貢献度は高いのです。

「報奨」は11年間で6195万円

 もちろん,アニールだけではありません。ほかにも性能向上のための技術や量産のための技術など,当社が青色LEDや白色LEDを商品化するまでには,大勢の技術者や研究者たちの努力がありました。

 もちろん,中村氏の貢献も認めています。青色LEDを研究テーマに選んだのは彼です。公知の技術とはいえ,当社になかったリソースにもかかわらず,文献の助けや外部の研究者の方などに教えてもらいながら,2年ほどで世界のトップ水準の結晶膜を日亜化学工業にもたらしたわけですから。それで将来の量産化に向かう「たたき台」になったのは事実なのです。

 この貢献に対し,当社は中村氏にボーナスや昇給という形で報いてきたつもりです。1989年から11年間の合計で,同世代の一般社員よりも6195万円ほど上乗せして支給しました。45歳で中村氏が退職する際の給与所得は2000万円弱。決して少ない額ではないと思うのです。中村氏は404特許の発明で得た報奨は,特許出願時と成立時の合計で2万円しかないなどと言っているようですが,そんなことは決してありません。

量産に使えないツーフロー装置

 先ほども言いましたが,ツーフローMOCVD装置はあくまでもサファイアの上にGaNの結晶膜を作るためのものであって,これだけでは青色LEDにはなりません。ほかに必要な技術がたくさんあるにもかかわらず,なぜ中村氏の貢献度(配分率)だけがあれほど高く評価されるのかが理解できません。世間も誤解しているようですが,今回の訴訟は青色LED全体に対する特許訴訟ではなく,その一部であるGaNの結晶膜を作る装置の特許に関する訴訟なのです。にもかかわらず,裁判所が算出した増分利益は,青色LED全体,いや,白色LEDまで含めたものになってしまっています。

 しかも,実はツーフローMOCVD装置は効率が低過ぎて量産には使えませんでした。実験室レベルの装置だったのです。そのため,量産工程では別の方法を使ってきました。さらに言えば,ツーフローMOCVD装置に関する特許は,中村氏が特許申請する前に何件か出ています。GaNを成膜するための特許もあったくらいです。

 中村氏は1994年以降,自分で実験はしていません。周囲の共同研究者の研究成果を筆頭者(ファーストオーサー)として対外的に発表してきました。こうした地方の会社から,日本だけでなく海外の学会でも発表してきたのです。だからみんなから「スーパーマン」のように思われてきました。論文の書き方も学会発表の意味も,当社の社員はよく知らなかったのです。「自分の名前が出ているからいいか」という程度でみんな仕事をしていました。

 ここが一番の問題だったのです。地方の会社で中村氏を自由にさせておいたから。中村氏が筆頭者として発表したあれだけの量の論文は,とても中村氏が自分で行った実験だけでは作成できません。

 その結果,世間が中村氏に注目し始め,いつの間にかみんなが「404特許は青色LEDを生み出すための基本特許であって,それは中村氏が1人で発明した」というふうに思い始めたのです。裁判官の方はきちんと調べてくださると思っていたのですが,やはりこの件は技術的に分かる方に評価していただかないと判断は難しいようです。

開発中止命令など出していない

 確かに,技術者の中にはことさらに自分がやったことを強調する人もいます。しかし中村氏の場合,そういうレベルの話ではありません。本当に不可解なのは,あらぬうそを平気でつくことです。例えば,法廷で彼は「社長から青色LEDの開発中止命令が2度出た」と言っています。

 誰かその証拠を見た人がいるのでしょうか。「開発中止命令のメモが回ってきた」と中村氏は言いますが,それを誰が見たのでしょう。裁判官も弁護士も見ていないのです。それはそうでしょう。誰も開発中止命令など出してはいないのですから。

 事実,試験研究費や設備投資,開発要員の推移を見れば分かります(図)。青色LEDに関する研究を始めた1989年から,試験研究費も設備投資費も開発要員も,毎年のように増やしてきました。現実問題として,これほどの人,モノ,カネを投じておいて,開発中止命令など出せるでしょうか。

 東京地裁で裁判官の方は「貧弱な研究環境で個人的能力と独創的な発想により世界的な発明を成し遂げた希有けうな事例」であると判決時に述べました。しかし,これも納得がいきかねます。1986年に当社は10億円を使って,研究棟を新設しました。床面積1万m2,6階建てです。1989~1993年までにガス系統などを含めて4億円はするMOCVD装置を5台も購入しています。地方の企業でこれだけの研究設備をそろえていたのです。一体,これのどこが「貧弱な研究環境」なのでしょうか。

 「貧弱な研究環境」という表現は,中村氏自身が書いた本や記事,インタビューを受けた雑誌などに見られるものです。要は,自分でそう表現しているだけなのです。

気が付いたら「悪者」に

 当社を訴えたことに関して,中村氏は「日亜化学工業が訴えたから反訴した」と語っていますが,これには「裏」があります。2000年9月22日,日亜化学工業は米Cree社から訴えられました。その4カ月以上前の2000年5月1日,中村氏はCree社と雇用契約を結びました。そして,それとは別に中村氏は日亜化学工業を訴えるという契約をCree社との間で結んでいるのです*3。もちろん,中村氏はCree社からインセンティブ(ストックオプション)を受け取ってのことですが。訴訟費用もすべてCree社が負担するという契約でした。それを知った当社は,2000年12月21日,Cree社を反訴するとともに中村氏を訴えたのです。

 ところがその後,当社とCree社は2002年11月14日に和解しました。それで残ったのが,2001年8月23日に中村氏が訴えた日亜化学工業との間の訴訟だということです。

 もちろん,当社はこうした事実を資料として裁判所に提出しました。裁判所で真実を訴えさえすれば,私たちは公正な裁定がされると思っていたのです。マスコミを通じて広く世間にコメントを発表するといった発想はなく,裁判とはそういうものだと思っていました。

 中村氏は,当社で青色LEDの開発を提案した本人ということから,世間に対して当社の青色LED関連の発表をする窓口を務めていました。加えて,先述のようにファーストオーサーとして論文を発表してきました。学会に訪れた研究者たちは,その内容が実は日亜化学工業の多くの技術者たちが成し遂げたものではなく,中村氏が1人で実現したものだと思ってきたのです。そうした外部への発言が,彼を「スター」に祭り上げ,いつの間にか世の中は,中村氏が発言したことを鵜呑うのみにするようになってしまったのです。

 ものづくりは日々改善が必要で,3日もさぼればすぐに他社に追いつかれ,追い越されてしまいます。だから,中村氏が何を言おうが,相手にせずにものづくりに力を入れる方を当社は選んできました。その結果,世間からは「日亜はなんてひどい会社なんだ」などと思われてしまいました。このままではこれまで青色LEDや白色LEDの開発に尽力してきた当社の多くの技術者や研究者たちが,あまりにもかわいそうです。

 いったん,イメージが付くとそれをぬぐい去るのは大変かもしれません。でも,これからは世間に対して説明し,理解してもらえるように発言していくつもりです。(聞き手=近岡 裕)

中村裁判 - Tech-On! (via bochinohito)

Source: bochinohito


「イタリアのちゃんとした成人男性なら、家の中ならともかく、どんな暑いときでも表を短パンで歩くような恥ずかしいまねはしません。そういうことをするのはアメリカの観光客だけで、イタリア人はあれは田舎者のやることだとみんな軽蔑しています」
「しかし、ファッション雑誌のイタリア人モデルはみんな短パン穿いているじゃないですか」
「日本のファッション雑誌に出てくるようなイタリア人は、現実には存在しません。あれは日本だけの誤ったイメージです」

 もうひとつ、と彼女は付け加えるのを忘れなかった。

「裸足で靴を履くのも禁止です。あんな下品なことをしているのは勘違いした日本人男性観光客だけです。お願いだから真似しないでくださいね」

ボローニャの銀幕にジローラモは舞った:日経ビジネスオンライン (via raitu)

Source: business.nikkeibp.co.jp



宇宙戦艦ヤマトの作画ではアニメーターにヒロポン配って不眠不休で働かせていたって本当でしょうか?
ヒロポンは、とっくの昔に製造禁止になっているので間違いです。正しい薬品名は「リタリン」です。現在の日本では薬事法の改正で、専門の医師が検査して、睡眠障害が計測器のデータで証明された患者の人にしか処方されませんが、10年ほど前には抗うつ剤として処方されていた薬です。アメリカでは「優等生のドラッグ」として、徹夜で勉強する為に使われたりしましたが、この薬には「食欲を抑制する作用がある」ので、昔は痩身剤(つまり痩せたい人がダイエットに服用する)として処方されていたんですよ。で、ファースト・ヤマトの制作中にプロデューサーの西崎氏が、六本木とか外国人が多い場所の処方箋薬局にベンツで乗りつけて「今、アメリカから来たご婦人がいるのですが、処方された薬を無くして困っているんですよ」と嘘を吐いて、その「リタリン」を大量に入手して、ヤマトのスタッフに「みんな、この「ビタミン剤」を飲んで頑張ってくれ」と騙して飲ませる訳です。で、知らずに「リタリン」を飲んだスタッフはみんな「ウヒョー、眠気が覚めたー!」って言ってガンガン徹夜する訳です。この話は生前の石黒昇さんから直接聞いた話ですけど、石黒さん曰く「何が酷いかって、それ以降は制作が、スタッフが徹夜する事を前提にスケジュールを組んで来やがって、もう大変だったんだよ」って仰っていました。

宇宙戦艦ヤマトの作画ではアニメーターにヒロポン配って不眠不休で働かせていたって本当でしょうか? | ask.fm/LawofGreen (via hikol)

Source: ask.fm




“調べもせずに、またまた一次史料を読みもせずに、適当なイメージだけで書いている似非専門家が一番タチが悪いんだよ。”

Kan Kimura (on DL)さんはTwitterを使っています: “調べもせずに、またまた一次史料を読みもせずに、適当なイメージだけで書いている似非専門家が一番タチが悪いんだよ。”

ちょっとずれるけど、個人的に「またか」と思ったのは新潟県加茂市の「自転車にのるな」報道かな。
毎日新聞の見出しだと『自転車:なるべくのるな 新潟・鴨市長が小中学生に』とある。
で、新潟県加茂市のホームページには保護者向けにこう書いてある。

文書には、なるべく自転車に乗らない方がよいと思うという私の思いと、どうしても自転車に乗らなければならないときは、必ずヘルメットを着用するよう心がけること等の大切なことを書かせていただきました。


ふむ、自転車に乗るな、と強制はしていないようだし、ヘルメット着用も書かれている。妥当じゃないのかな?
その上で、小中学生向けにはこう書いてある。

1 自動車がたくさん通る中で、自転車に乗ることは、きわめて危険であることは、誰もが認めることです。
2 自転車には、なるべく乗らないようにするのがよいと思います。
3 そして、なるべく徒歩かバス等を利用するのがよいと思います。
4 どうしても自転車に乗らなければならないときは、
⑴ 必ずヘルメットを着用するよう心がけて下さい。
⑵ 自動車がひんぱんに通る道へは、なるべく出ないように心がけましょう。
⑶ 先生や保護者の方々の御指導に従って、交通ルールをよく守って下さい。
⑷ 歩道を通ってもよいことになっているところは、歩道を通って下さい。
⑸ 暗くなってからの運転は、やめましょう。

そんなに過激なことは書いていない。ちゃんとヘルメット着用と書いているので共感できるかと。これを読むと当たり前のことしか書いていないように見える。自転車禁止とは書いていないし。くどいけど、自転車禁止では無さそう。

ただ、報道内容だけを読んでるだけの人は条件反射だけでTwitterでこんな風にツイートしている。

自転車、危ない」で集められた映像などで、 それ、本当は「自動車、危ない」じゃないですか?というものも混じっているのが気になる。: 危険運転の自転車も、何かあると車に撥ねられて危険という場合も、全部、いっしょ。 : 「アンチ自転車」イメージ戦略っぽい。

違うって、「アンチ自転車」じゃ無いって。w 悲しい事故が在ったのです。

新潟県加茂市。 : 状況を改善する気が無い。 : 「危険」への対応方法は、「ただ遠ざける」というおバカな発想。 : ガッカリさせられる。

乗るのを禁止してないって。ちゃんと読んでますか。w

新潟県加茂市。 : 小学生、中学生の命を守る。というようなことを理由にしていたが、 本当のところは、多分、車に乗っているときに、生徒等が乗った無謀な自転車の挙動にヒヤリとさせられて、「邪魔だ!」と考えただけなのだろう。

事故があったからですよ。「邪魔だ!」と考えたわけではなさそうです。w

新潟県加茂市。 : 「乗るな」じゃなくて、小学生、中学生に、自転車に乗るときのルール遵守を徹底させること。 (大人もルールを守っていないけどね。) : 免許を取る前だから道路交通法を意識していないし。 教えてあげなくちゃ。

はい、そうですね。交通ルールを守るように書いていますよね。ちゃんと読んでいますか。w 

うちの子供が通っている小学校でも警察の人が来て、自転車のルールについての説明がありました。どこの小学校や中学校でもやってるんじゃないかな。

新潟県加茂市。 : 私は、自転車乗りだが、自転車乗りにとっても、一番の敵は、テキトーな乗り方をしている自転車乗り。 : だからといって、「小学生、中学生、自転車乗るな」とするのは、違う。 : ルール違反の自転車乗りの取り締まりは厳しくてOKです。

そうですね。ちなみにヘルメット着用していますか、ツイートした人。w

新潟県加茂市のニュースを見て、ツイートした後、ネットで調べたら、 「市内の小中学校の校長からも賛同を得て」って書かれた文章を見つけた。 : こんな間抜けな話で議論は起きなかったのか? : 加茂市では「事なかれ」的な人間でないと校長にはなれないのか?

ネットで調べるなら、まず新潟県加茂市のホームページで調べたら良いのに。w

加茂市長の文章を視る限り「事なかれ」てきな書き方では無いと思ったけど。

たぶん、この「事なかれ」ツイートは、疋田さんのメルマガのネタを使ったんだろうな。そっくりだから。

しかし、加茂市民、不幸だねぇ。
「事故が起きたから禁止」って、まるで小学校の学級会みたいだ。こんなのがトップにいるってんだから、もう一事が万事、市政はこの調子なんだろう。
 本来ならば「不幸な事故が起きた、だから、教育を徹底する、インフラを整備する」というのが常道だろう。それが政治であり、行政というものだ。または事故の内容によっては「加害者側(つまりクルマの通行)に規制をかける」というのもあるかもしれない。
 ところが、この町では「事故だ、だから(自転車の方が)禁止」である。こうした発想の向こうには、事なかれ主義と、無責任と、悪しき官僚主義しかない。そして大本には間違いなく「チャリ邪魔!」というクルマさえよければいいクルマ脳、すなわちジコチュー主義がある。ジコチューってのは政治家に一番向いてない資質だろうにね。

ここでも「事故だ、だから(自転車の方が)禁止」と書かれてるな。禁止とは思えないけど。

本来、自転車というものは、小学生のうちに触れ、親しみ、乗れるようになり、交通ルールを覚え、社会の一員となっていく、と、そういうものだろう。
 その時点で、交通ルールを教え込み、してはならない運転、事故回避のための手段などを学ばせる。安全運転の大切さ、事故の怖さを教える。それが教育というものだ。危ないから隔離、禁止、というのではなく、危ないから危なくならないように教える。刃物だって火だって何だってそうだ。
 ところが、加茂市では「禁止」。

いえ、禁止ではありませんって。

もしも私が加茂市に住んでいて中学生の息子や娘がいるなら、我が子に向かってこう言うだろう。
「自転車乗るな? 市長が言ったって? あー、あの市長は馬鹿なんだから気にするな。乗れ乗れ」と。
 息子や娘は、きっとこう思う。
「市長ってのは馬鹿なんだ。言うことをきく必要なんてないんだ。じゃ、それをそのまま告げる先生や校長は、もっと馬鹿ってことだな、言うことをきく必要なんて、さらさらないな」

 私が思うに、こういうところから、社会の崩壊、秩序の瓦解ってヤツは始まる。
 トップを尊敬できない組織は不幸だし、師を尊敬できない生徒も不幸だ。
「自転車禁止」は、間違いなくそういう不幸の発端になる。

しつこいですが、加茂市では本当に「自転車禁止」なんでしょうか? 

まず、『適当なイメージだけで』ツイートするのは止めましょうや。いや本当に。

新聞報道が、一部を取り上げて報道するのはどうかと思いますけどね。朝日新聞の一件で新聞の信頼度が下がったと思ったのですが、まだ単純に信じる人がいるのが驚きです。

Source: twitter.com




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